MarCalma~マールカルマ~

フラメンコとヨガと日々思うこと@名古屋

読んだ本20のスピンアウト 中動態→英語と日本語よもやま話

MarCalmaのtoccoです。

 

先日「読んだ本20」で紹介した本のスピンアウトです。

mar-calma.com

 

「中動態の世界」を読んで、英語と日本語についても感じたことや思い出したことを。

現在の英語や他のヨーロッパ言語だと、主語を明確にします。省略しても、その動詞の活用形で(私が、といった一人称など)、主語が必ずわかるようになっています(聞き手がその活用形を知っている場合)。

英語では、文の種類は、能動態(私が~する という、自分がその行動を起こすこと)と受動態(私が~される  という、自分がその行動を起こされる、被る)のどちらか。

白か黒。シビアな世界です。

しかし、中動態を使っていた大昔ギリシャ語やインドヨーロッパ言語では、何が何でも白黒つけることはしていなかったようです。かといって、グレー、というわけでもなく。つまり、文を作っている本人が、その状態を観察しているような文。話し手が、その内容に関ってない、当事者じゃない、と言いますか。。

一方、日本語が母国語だと、話し手は、主語をあいまいにしがちです。なんなら、主語が何かを考えてなかったりして。なんなら、話していくにつれて主語が変わっていったりして。。。

日本語では、話し手から動詞や述部だけが放たれ、それらが漂うトークに。聞き手は、「主語は誰だ?クイズ」を脳内でしながら、多分これだと思う主語と、放たれた動詞をくっつけながら理解して、内容をも平行して追っています。

場合によっては、聞き手が脳内で仮置きした主語が、話を聞いていく内に違うことが判明し、(じゃあ、あの内容は誰がしたことなんだろう??)と考えてたりして。

日本語は、話すよりも、聞いて理解する方が難しいのかも、と思ったりします。

それを日常的にしている私達日本人は、すごいなと思います。

さて、英語を勉強し始めた時、テストで「この文の主語は何か」という設問に手を焼いたことを思い出します。自分でよくわからないなりに考えて、(これかな)と書いたら、違ってた、、、ということもありました。「そもそも、主語なんて今まで考えたことなかったんだもん。知らないよ。」というのが当時の自分の本音。

それを、学校の先生達の「○○だから能動態、🌟🌟だから受動態」という理由付けや、「でも例外もあります、、、」という無情の教えに、なぬ~?!と思ったりしながら、反復練習を繰り返し、ようやく「主語の概念 in 英語」を自分の脳に移植していきました。

今振り返ってみると、自分になかった考え方を知っていくことで自分の世界が広がっていく感覚を、外国語を学ぶことでも味わっていたんだなと思います。

とりとめもなくなりましたが、よもやま話として。

 

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